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​楽しい体育の可能性

 1979年に提起され,80年代を通じて基礎的なモデルを開発した「楽しい体育」は,生涯学習・生涯スポーツとのかかわりから,一世を風靡するコンセプトとなった。しかも,その学習指導の進め方が,学習指導要領参考資料において「めあて学習」として喧伝され,教育行政の後ろ盾を得たような状況になったことから,その形式は急速に広まり,瞬く間に全国的な展開をみるようになった。しかし,こうした普及の過程で一般化した楽しい体育は,その思想的な志向性が軽視・忘却され,考え方を喪失した画一的で形式化した「めあて学習」に矮小化されたのである。

 加えて,「いじめ」や「自己コントロール不足」等に象徴される新たな子どもを巡る問題の多発と教育課題の発生,健康不安と連動する体力低下の状況等が重なり合って,「形式化した楽しい体育」批判を展開した。前者は,ふれあい・かかわり合いを目的化する「脱運動の特性論」を主張して過剰なロマンチシズムに指向し,後者は,健康の科学と運動の科学を基盤とする体力つくりを主張して身体のテクニシズムに指向するものであった。前者はきわめて道徳的な装いをもつが,また後者はきわめて科学的な装いをもつが,ともに現代化した規律訓練であることに注意しなければならない。

 また,楽しい体育論の主張する「生涯スポーツビジョン」の不明確さは,スポーツの大衆化が,高度経済化に支えられて自然成長するとともに,一次的な大衆化=生涯スポーツととらえる偏狭なスポーツ論の視点からの批判を容易にし,スポーツ教育批判と連動して,楽しい体育批判を増幅させたのである。

 20世紀の後半に生じた東西緊張の消失と,先進諸国における脱産業化への志向は,規律訓練型体育需要を著しく喪失させ,年間授業時間の削減を先導した。その結果体育は,制度的な意味での教科の存在を危うくし,膨張する健康需要に対応した形で,規律訓練の現代版としての「健やかな心身の形成」を標榜している。

 こうして,今,それがソフトであれハードであれ,体育における道徳主義の復活が,政治的迎合主義の便宜的用語として使用される「アカウンタビリテイ」の名のもとに展開されようとしており,それこそは,権力に奉仕する規律訓練の再生産であり,自立化を求めて歩み続けてきた戦後体育の成果を無に帰する営みに他ならないのである。

 楽しい体育の学習指導論は,規律訓練型体育のパラダイムを転換した最初で唯一のものである。スポーツの政治的・経済的・文化的影響力がますます巨大化する今日,またスポーツが,望まれる「健やかな生,豊かな交流,伸びやかな自己開発」をデザインするライフスタイルの構成要素として一層の重要性をもつこの時代に,スポーツの文化的享受に向けられた学習指導が望まれ,求められることはきわめて明らかである。何故なら,環境と共生がテーマとなった世界で,スポーツの公共性を,権力によってではなく,学びの共同性を通じて創造することが切実に望まれるからである。

 楽しい体育は,教科学習の地平において,これを求め,望もうとする思想である。それは,スポーツの文化的享受能力の開発を通じて,Physical Freedom(身体的自由)の探求による Physical Happinessの享受を求める。第1ルネッサンスが学問の享受による知性の解放に,第2ルネッサンスが芸術の享受による感性の解放に道を開いたように,今望まれる第3ルネッサンスは,スポーツ享受による身体の解放を希求する。楽しい体育は,まず身体を規律訓練から解放することにおいてその先駆けとなり,スポーツの文化的享受能力の開発を通じて,そのフロンティアを担おうとする。楽しい体育が「未完のプロジェクト」であるゆえんは,理論と実践の50%比にあるだけでなく,それが第3ルネッサンスを展望し,スポーツの文化的享受を通じた身体的自由の探求と身体的幸福の享受を望むからである。(佐伯年詩雄)

 

【全体研ニュースNo.97(2005-10) 楽しい体育のキーワード:第6回より引用】

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